産まれた時は覚えてないが、呼吸はしていた。
自分の存在に気がついて、瞳をしばたかせていたのを覚えている。
ただ、生きているということだけを分かっていた。
あとは何も知らない。
何故、産まれたのかさえ分からない。
あるのは身体ひとつと名前だけ。
イヅルは何も分からない。
 
 
傍にはギンが居た。
イヅルの知っていることは少ないけれど、イヅルはギンを知っていた。
ギンの普段は伏せられている瞳が、とても綺麗な色をしていること。
ギンが微笑以外の表情を浮かべないこと。
イヅルは確かにギンを知っていた。
呼吸を始めた時から、イヅルの世界でギンは笑っていた。
どうしてだか分からないけれど、ギンはよくイヅルに言った。
 
「××してる、て言うて」
 
イヅルにその意味は分からない。
けれど、イヅルは応える。
 
「××しています」
 
「だれを?」
 
「あなたを」
 
「うん、イヅルはボクを××してるんやね」
 
「はい」
 
「もっかい言うて」
 
ことばを囁くと、きゅう、と胸の辺りが苦しくなった。
どうしてだか喉が狭まった。
掠れそうになる声をイヅルはいつも隠した。
この唇は知らない。
吐き出すそれをイヅルは理解などしていない。
知ったかぶって囁く真似ごとは、ひどくみっともなかった。
 
「××しています」
 
それなのに、胸が張り裂けそうだとイヅルは思う。
喉につかえ、切迫されていく。
 
「××しています」
 
幾度も幾度もギンはイヅルに囁かせる。
その行為の意味も、苦しさの理由もイヅルには何にも分からないのに。
ただ、息がひどく詰まる。
ことばを吐く度、苦しさを感じていた。
 
「××しています」
 
ギンは何をするわけでもなく、ただ笑ってイヅルのこえを聞いている。
何一つ反応も返さないで、吐き出されるものを甘受している。
ギンが望んでいるものなどイヅルには分からない。
けれどギンは求めた。
イヅルはそれに応えるだけなのだ。
イヅルが知る世界はひどく狭かった。
イヅル自身がそうと分からないくらいに、イヅルの世界は小さかった。
その中でイヅルは生きている。
イヅルの傍にギンが居た訳も。
イヅルの世界にギンしか居なかった訳も。
イヅルは何も知らないまま、生きている。
 
もう何度目の繰り返しだっただろうか。
千を境にイヅルは数えるのを止めていた。
 
「ボク、阿呆やねん。なぁんも知らんの」
 
イヅルは瞬いて、常と変わりないギンの顔を見上げた。
 
「だれかさんがボクには理解でけへん言うてた意味が、よう分かったわ」
 
いつものように微笑むギンの声は、それを哀しんでいるようにも聞こえた。
何処か虚ろな声が笑った。
 
「よう分からんもん造ろうなんて無理な話や。ほんま阿呆らしなぁ」
 
からからと響くのは、嘲笑だとイヅルは思う。
嘲笑っているのはギン自身だ。
何がおかしいのか、ギンは気が触れたように笑いつづける。
 
「イヅル?どした……」
 
イヅルはギンを抱きしめた。
抱くと言うよりは縋り付くようだったけれど、イヅルは力いっぱいギンを包み込んだ。
思えばギンに触れたのは、初めてだと言うことにイヅルは気が付いた。
交わしていたのは言葉だけで、それ以外に何もなかったのだ。
こんなに傍に居たのに、何も。
 
「っ、」
 
こえを吐きもしていないのに恐ろしく息が詰まっていた。
喉の奥で、むせ返るような何かが邪魔をしている。
何一つ吐き出せず、痛いほどに胸が苦しい。
呼吸の仕方が分からない。
酸素を求めて、みっともなく喘いだ。
ぱくぱくと口を開閉させても零れたのは成り損ないの吐息。
何一つ言葉に成らない。
喉が潰れてしまったのか。
狭まる気道から、掠れきったおとが漏れる。
イヅルは必死になった。
ひゅうひゅうと吹き抜ける呼気が疎ましくてもどかしい。
 
いわなきゃ。
 
そればかりがイヅルの頭を巡る。
ギンはこんなに近い場所にいる。
なのに、声だけが出てこない。
全てが緩慢でもどかしかった。
イヅルは何も知らない。
此処にいる意味も、生まれてきた訳も、ギンの望みも。
イヅルは、分からない。
体が重く、手足の先から感覚が鈍り始めている事を。
 
「なぁ、言うて」
 
擦り切れた喉が、微かに音を漏らした。
イヅルはそっとギンを見た。
霞んでいく世界の中、今までで最も近くにギンを感じる。
そんなはずは無いのに、ギンが泣いているようにイヅルは見えた。
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