別段この男に恨みがあるわけでも、因縁があるわけでもない。
寧ろ思うところは敬愛の念であり、イヅルにとっては崇拝するに足る存在だ。
従って間違っても殺意など抱く筈も無いのだが、イヅルは今この男に刀を突き付けている。
無論、威嚇でも牽制でもなく、喉元を裂き、男を死に至らしめる為の行為。
男の細い目は完全に閉じられ、薄く開かれた唇からは規則正しく吐息が出入りしている。
イヅルは横たわる男の傍らに立ち、静かにその白い喉元に刃を添えている。
平常であれば悍ましき化け物の如き存在が、眠っていると云うだけで何と無防備な事か。
このような状態でなければ、イヅルは男に切っ先を向けるような真似など到底出来ない。
しかし現実としてイヅルが少し力を入れて腕を引けば、忽ちおとこは絶命する。
なんて簡単。
ひどく容易く男の息の根を止めることが出来る状況に、寧ろイヅルは動揺した。
薄暗がりの中で、刀身が鈍く光る。
握り締めた柄から己と同じような不安と惑いが伝わってくる。

(嗚呼、分かってる。大丈夫だよ佗助)

宥めるように愛刀に応えてやる。
しかし手の平が汗ばみ、僅かに震動している事もイヅルは自覚している。
男は眠り、傍らのイヅルの存在など感じ取ってはいない。
霊圧と足音、その他自分の存在を気取らせるものを最大限まで削った。
男の眠りは、深い。
後は、此の刃を下地の肌に食い込ませて、引き裂くだけ。
そうすれば全て終わる。
男は二度と目覚める事無く、終焉を迎える。
暴力的なまでに優位な立場だと頭では分かっているのに、イヅルの不安は拭えない。
眠りに落ちていて尚、部屋に満ちる男の霊圧は酷く濃い。
濃密なそれに含まれる男の気配にイヅルは戦慄を覚えた。
早く早くと焦燥が脳裏にへばり付くのに、其れを躊躇わせる男の存在。
死んでしまったような静寂が耳鳴りを呼び起こし、ごくりと有りもしない生唾を呑んだ。
張り詰めた神経を伝う動揺でイヅルの脳は飽和していく。
無意識のうちに大きく胸が上下していたのに気付いた。
思わず目を伏せ呼吸を整えた。
尖る神経を鎮めて、胸の中で三つを数える。
伸ばした腕の先で男に刀を突き付けたまま。

(一、)

(二、)

(…………)

イヅルは数える事を止めて目を開ける。
閉じる前と変わる筈もなく、やはり自分は薄暗がりの中で男に刀を向けている。
たった今、此の瞬間、自分は男を手に掛けようとしている。
それなのにどうしても解せない事実にイヅルは気付く。
盲目の闇の中では、自分の脳味噌の中身が明瞭に映った。
男の喉に刀を宛てがうまでは良い。
しかしイヅルにはその先が想像出来なかった。
添えた刃を引けば、男は死ぬ。
理屈はひどくよく判っているのに、どうしてもその惨状が頭に浮かばぬ。

ずるり、

同時に耳奥で聞こえた。
其れは這い擦る音。
細い戸の隙間から頭を擡げ、畳の上を徐々に移動する。
畳の音。
在りはしない。
聞こえてしまう。
ざらついた音。
近寄る。ざらつく。這う。
止まった。
イヅルの足元。
青白い顔が面を上げる。

ちろり、

朱い舌を覗かせ、男が嗤った。
気がした。
 

朧月夜の下、イヅルは廊下で立ち尽くす。
今は鞘に収まる愛刀を労るように一撫でした。
粘り着く声。不穏な笑み。蠢く指先。
其れらは、平常受け入れている筈の男の動作だ。
しかし、いつの間にかイヅルの手は腰に伸びていた。
何時だって男の前でイヅルの手は佗助の柄に、触れていた。
自覚した時、イヅルは僅かに動揺して、そしてすぐに仕方が無いと肩を竦めた。
衝動の在りかは、脳でも心でもなく本能だった。
陶酔や憧憬の下敷きになっていただけで、イヅルは男を一目見た瞬間からそう思っていたのだ。
男を前にして、イヅルが感じた感覚は忘れ難い。
全身を蛇が這い擦り、悉くを緩やかに絞め殺されていくようなそんな感覚。
あのぬらりとした眼や口の動きを、イヅルは獲物を前にした蛇の舌舐めずりと錯覚した。
体中が総毛立った。
危ない。危険。非常。異常。危ない。危ない。

(あの眼は自分を逃さぬよう光らす眼だ。)
(あの口はいずれ自分を補食する口だ。)
(あの手はいずれ自分を絞め殺す手だ。)

湧き出したのは殺意ではなく、恐怖と緊張。
必然的に機能していたのは、生存本能、防衛本能。
侘助の叫ぶこえ。
最初からイヅルは感じていたのだ。

 
ころさなくては、と。
 
 
「……ねぇ、佗助。次はどうしようか?」

落ち着いた問いに答えはひとつ。 衝動に戸惑いこそ無いけれど、侘助は斬る事しか知らないのだ。
だからイヅルも侘助も恐れている。
男を、死を、報復を、笑みを。     
所詮、頭を落とした所で、蛇は尻尾で這い擦るのだから。

…………
まともな人なら誰しもたいちょを警戒する。(東仙談)
つまりルキアちゃんはえっらいマトモなんですね。
確かにたいちょは蛇やら狐やら、色々と人外扱い。
 
 物の怪当たりが丁度いいんじゃないかな。
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