底辺上の幸福論

光彩から、光りが失せた。
あ、と口には出さず、息を漏らした。
同時に質素な閨に似つかわしくない異質な音が止む。
丹念に徹底的な作業が、今終わった。
振り返れば実に呆気なかった。
彼が少しばかりは手を焼かせるかと考えていたものだから、少し落胆に近い感想を抱く。
最初は驚愕や抵抗、反撃の意と云ったものを見せていたが、何を思ったか突如ふつりとそれらが消えた。
それは諦めとは少し違う気がした。けれどどうでも良いことだった。

『……、…………、』

寸前、何かを口にしようと唇が動いていた。
彼の最後の意思表示であろうそれは、こえすら出おらず全くに無様であった。
確かに、見てくれは良いものだと思う。
だが彼より強い死神も、彼より賢い死神も瀞霊艇には山のようにいる。
彼だけが持つ力、美徳、何故彼でなければならなかったのか。
こうして対峙してみた今でも、僕にはそれが分からず、大変理解に苦しむ。
余りの検討違いさに、もしや自分の行為が無駄足なのではないかと少しばかり懸念すらした。
すっ、と背後で襖の開かれる音がした。
吐き気を催すような臭いが外に流れ出し、差し込んだ明かりと共にギンが居た。

「やぁ。丁度終わったところだよ。」

外明かりを受けて微笑む僕を一瞥して、ギンはそれから座敷の奥を凝視した。

「全く手応えらしい手応えが無かった。拍子抜けしてしまったよ。君もよくこんなものを傍に置いていたものだね。」

ギンは何も応えない。
ゆら、と幽鬼のような覚束なさで彼に歩み寄る。
羽織りが汚れるのも構わず薄暗がりで彼の傍らに屈んだ。
そっと彼の頬に手を宛がい、覗き込むようにじ、とその眼差しを向けているようだった。
空気が静まり返る中、ギンの背中は怒りも泣きも喚きもしなかった。
ギンらしからぬ呆然とした様子は、反応としては期待外れだが、衝撃の大きさを知るには十分過ぎた。

死は冷たく暗く悲しみを伴い、ひとは死を絶対として恐れるけれど、世界には確かに死より惨い事がある。
死神として少しばかり生きれば、そんなものの一ツや二ツは嫌でも目の当たりにした。
噎せ返るような、醜悪な臭いや、鼓膜に張り付いた、阿鼻叫喚。
眼球をえぐり出したくなるような、酸鼻極まった世界の暗部。
その惨さたるや、精神に傷を負ったものや、気を違えた者さえいる。
一様に彼等は云うのだ。

しにたい、と。

嗚呼、彼等は世界に絶望したのだ。
それが何故か強く僕の胸を打っていた。

……僕は、ギンを不幸にしたかった。
あの能面の笑みを崩し、深い深い、奈落の底に突き落としてしまいたい。
そうして、暗く澱んだ絶望の底のギンを、ただひとり僕だけが愛おしく想う。
それはどうしようもなく幸せで、狂おしい。
死より惨い、花束のような不幸せを。

不意にぽつん、と細く彼の名が呟やかれた。
嗚呼そうだ。彼はそんな名をしていた、と今更のように思い当たる。
無抵抗に、きれいな名だと思う。
けれども消え入りそうな呟きは、鼓膜に届くなり僕の耳の中を這い回った。
さわさわと首筋が粟立つ。
同時に腹の中でもざわめいた。
悪寒のような、それ。
口を開けば今にもこえに成らぬこえが溢れそうで、ただ口を結んでいようとして、そして気付いた。

くくく、

喉を歪ませ、空気を震わせ、微細に沈黙を揺らしていた。
彼を腕に抱いたギンがこちらを顧みる。
どうしてかそれはひとと云うよりは、物の怪染みた印象を受けた。
笑んで云った。

「あんたさんも、存外、ひとらしい感情持ってたんやね。」

思わず魅入ってしまうような熟した石榴の色に、眩惑される。
あどけなさを残す朱色の笑みに、僕はそこはかとない郷愁感さえ覚えた。じん、と脳が麻痺するような感覚。
それを忘れるように微笑した。

「僕を殺したいかい。」

「いいえ。」

僕は肩透かしを食らわされた気がした。

「返り討ちを配慮出来るほど冷静と云うのは少し意外だな。」

「そう云う訳やないですよ。」

「彼はこんなにも壊れてしまったよ。」

「ほんま、ボクのかいらし子なんに。ひどいことしはる。」

「それならどうしてお前は笑っているんだい?」

彼は死ぬより酷い有様だと云うのに。

「ボクですね、おかしゅうてしゃあないんですわ。」

くつくつと喉を引き攣らすようにギンは笑った。
それを見てふと、ひどい違和感を覚えた。
笑うギンなど見馴れている筈だ。常としてギンが浮かべる表情は一ツなのだから。
けれど何故かそれを初めて目の当たりにしたような気がした。
既知のギンの笑みとそれとの不明瞭な齟齬に、首を傾げた。

「………………。」

はたと気付く。思わず笑みが消えた。
『くくく』と、『くつくつ』と、ギンが笑う。

ギンの笑い声など、聞いたことがあっただろうか。

それは、紛れも無い嘲笑だった。

「あんたさん、この程度でボクとイヅルを引き裂けると思うたんですか。」

僕を嘲笑うギンは息を呑むほど美しくて、恐ろしいまでに不可侵だった。
外の明かりと部屋の薄闇の狭間で、深い愉悦を湛えるギン。
腕の中の彼を慈しむ仕草が自分と重なった。
僕も、こんな風にギンを。

嗚呼。
最初は単なる手駒として与えた。せいぜい可愛がってやりなさいと忠言までした。
その役目は誰でも良かった。手頃で、使えそうだったから選んだ。
さしたる美徳も価値も持ち合わせていない有り触れて下らない死神。ギンがのめり込むなんて思いもしなかった。
これほどまでに深く傾倒した。
僕の真似をするようにギンは彼を愛した。
そして僕は予想外を享受して何時ものように微笑んで居た。嘘だ。

何かを口にしようとして、止めた。
代わりにギンに歩み寄った。
立ち塞がる僕を見上げて、ギンはものを知らぬこどものようにただただ首を傾げて見せた。

「ボクを斬りますか。」

刀の塚に触れている僕の手を眺めながら、ギンはなんでもないように云う。

「良えですよ斬っても。ただボクがイヅルを斬ってからで頼みますけど。」

ずっといっしょやもんな、と既にこえも届かない彼にギンは笑いかける。
手を下した僕の目から見ても、彼の状態は本当に酷かった。
誰しも何故死なせてやらなかったのかと叫ぶ有様だ。
そこまで最悪なのに。

「……寧ろ、壊れた彼と生きる方が残酷だろうか。」

「イヅルが元に戻らんくても、ボクらは幸福に生きてきますよ。」

「彼はもう、お前をお前と分からない。お前に施される感情も、お前に抱いている感情も何一ツ分からない。」

「イヅルがボクの幸せです。なにがどれだけ地獄でも。」

「彼を殺したら、多少はそのかおが歪むのかな。」

「泣く前にボクもイヅルと同しとこに行くだけです。」

にこり、とこんな場に似つかわしくなくて、けれどギンに相応しく笑った。
何時もの能面でも、嘲笑でも揶揄でもなく、珍しくただ純粋な意味で笑った。
だから、分かってしまった。
ギンは幸福だ。
僕が彼を徹底的に壊そうが、僕がギンを殺そうが、どれほどのことをやって退けようとも僕にギンを不幸になんか出来やしない。
彼がギンを愛した事実が消えない限り、ギンから笑みが消えることは無い。
ギンを不幸せに出来るのは、

「イヅル。」

僕が壊した彼だけだ。
見せ付けるように、口付ける。

「イヅルはこないなっても奇麗やなぁ。だから好き。なぁ、イヅル。」

血のような舌が彼の口を舐め上げて、何度もその名を呼んだ。
力無い身体がただ、ギンの腕の中で無抵抗に愛されていくのを目の当たりにする。
視覚と聴覚から掻きむしりたい程の不快が流れ込んできて、衝動に狂いそうだった。

嗚呼、嗚呼、嗚呼、

鞘から刀を引き抜くことに最早躊躇は伴わかった。
明確となった殺意を眼前にして、ギンは彼を抱き抱えたまま顔色一ツ変えなかった。
微塵のたじろぎもせず、微笑は変わらずに弓なりの目を細めてギンは僕を見つめる。
誘うようなその眼差しがやはりどうしようもなく愛おしくて、憎らしかった。
刃を振り上げる。
目の前で、そっと囁くように、薄い唇がことばを形作った。
音を吐かないそれが、壊される瞬間の彼と重なった。

あわれなひと 。
 
たおやかにギンは笑む。
今更思い返せば、最後に彼も微笑んでいた気がする。
嗚呼でもそんな疑義よりも、眼前にあって頭の中を静かに掻き回すものが、ひどく鬱陶しくて、泣きたい気さえした。
この僕ですらこんな拙い感情に振り回されるなんて、嗚呼、なんてことだろう。
 
確かにこれは、死より惨かった。
 
…………
過去形藍ギンと現在進行形ギンイヅ。
にこにこ(にたにた)しながら声を上げない妖怪狐面のたいちょ。
20101109
inserted by FC2 system