「ただいま」

お帰りになったあなたを僕は玄関で迎える。
イヅルは嫁さんみたいやね、とあなたは戯れ事めかして云う。
そのように殊勝なものに成れる訳もないのだけれど、正直なところは満更でもない。
居間に着くなり背後から抱きすくめられた。

「イヅル。」

あなたのものでも、僕のものでもない匂いが漂った。
こんな時、あなたは僕の名を呼ぶ。
ぐずぐずととろかすようにやさしく。
腐らせるようにあまく。
ああ、この温度を僕は知っている。

「イヅル。」

「はい。」

あなたの脈絡の無いキスを、目を閉じて甘受する。
あなたは悪びれないかおで笑う。
くすくすと。
僕は目をつぶっているから、その白無垢の羽織りに飛び散った赤色なんて知らない。
その手が肉を斬った感触だって知り得ない。
華やかな香や見知った霊圧の残滓にだって目をつぶる。
じわりと胸のうちに滲むのは僅かな妬ましさと多大な自己満足だ。
どれも浅ましく、はしたない。
あなたのお傍に居るのには相応しくない感情だ。
それでも口角が上がるのは抑え切れず、くすくすとあなたを模倣するように微笑した。
身体が反転させられ、正面から抱きしめられた。
目の前の瞳がおかしそうに細められた。

「あらあら。何かええことでもあったんか?」

「あなたが口づけて下さいましたから。」

「イヅルはたまぁにちゅうのあとそないな風に笑いよる。」

どちらともなく、くくく、と喉を鳴らす。

「何か普段と違いますでしょうか?」

そう云って、僕は白々しくも小首を傾げた。
すると長く白磁のような指が笑んだ口唇をするりとなぞり、引き裂くように覗いた血の色が僕を見据えた。

「いつもよりずっと厭らしいかおしよる。腹ン中真っ黒やね、イヅル。」

そしてまた唇を重ねられる。

「ボクとおんなし。」

仕方無い。
飼い犬は主人に似るものなのだから。
三度目は舌を入れられた。

「ん、」

並んだ歯をなぞられ、舌を貪られる。
逃げに及ぶことも許されない。
容易に息もつけぬような口づけに、呑むに呑まれぬ唾液が端から流れ出た。
ぬるついた触れ合いに背中が粟立ち、足の奥がぞくぞくと熱を孕んだ。
いっそ食らって欲しいと思う。

「だいすき、あいしてる。」

「…………。」

「はなしたない。」

「………………。」

「ボクのイヅル。」

「はい。」

「ボクだけの、」

「…………はい。」

それはきっと嘘ではないでしょう。
だってあなたはこんなにも躊躇無くぼくの逃げ道をなくしてゆく。
けれど、あなたがどれだけぼくをあいしていても、ふたりきりになんてなれないのですよ。いちまるたいちょう。

云わなくたって分かりきってる。
きっと、あなたも。
僕を抱きしめて睦言を囁くあなたのどれもがひどく優しくて、毎度のように僕は死んでしまいそうな程の多幸感に苛まれる。
あなたが優しいのはこんな時だけ。
脈絡の無い口づけも蕩かす声の温度も、僕に後ろめたい事がある時だ。
ふと、そういえば彼には未だ本を貸していなかった事を思い出す。
あなたに斬られた彼は、瀬戸際にそんな約束を思い出す事もなかったとは思うけれど。
ぶつり。また切れる音だ。
だれかが触れた。
斬られた。
憂さ晴らしにおんなが喘いで。
あなたがぼくに優しくなる。
あなたは、あなた以外が僕の中に不要だと仰る。
気付くひとは気付いている。
知らぬ誰かはまた斬られ、まただれかが気付いて、やがては僕にはあなたしか居なくなる。
けれど、二人きりになどなれないのですよ。
すきすきだいすきあいしてる。
嘘では無いのでしょう。
けれど二人きりなんてなったらあなたは僕に飽くのです。
それなのにあなたは未だそんな夢を見て、また僕に優しくなるのですか。
命の糸が切れていく。ぶちぶちと。
それなのに、僕愛しさに糸を断つあなたに満足せずにはいられない。
畳に倒された背を起こして、精一杯あなたの首筋に歯を立てた。

「僕もあなたをあいしていますから……。」

あなたはとても幸福そうに笑った。
ぶつり、と切れた皮膚の感触は糸が切れた時のそれだった。


…………
だれもしあわせになれないけど、とてもしあわせなふたり。

土台は林檎嬢の「愛/妻家/の朝/食」より。


20110323.

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