初めてひとを食べた日のことを覚えている。
飢えていた。
腕でも足でも内臓でも、腹を満たせれば何でも良かった。
後から後から口に詰め込んだ。
骨の髄までしゃぶり尽くした。
肉の破片がびっしりと指の爪の間に詰まって、気持ち悪かった。
生臭い吐息と、血溜まりに映ったぎらぎらと開き切った目はひとより遠い、けもののそれ。
肉塊は最早かたちをとどめていない。
大部分を腹に収めたそれを殺したのかどうしたのかはギンは覚えていない。
男だったのか女だったのか大人だったのか子供だったのか誰だったのかは覚えていない。
筋張った生臭い肉は美味くなかった。
よく晴れた日の昼下がりのこと。
ひとを食らったことをギンは覚えている。


時々、ひとの肉の味を思い出す。
飢えることがなくなった今でも、舌が柘榴のようなあの味を反芻する。
じゅるり、とギンは喉を鳴らし、イヅルの既に衣服がはだけ、露わになった肩口に噛み付いた。

「っ」

イヅルは息を呑み、ぎゅう、とギンの身体にしがみつく。
ひとの味を知った口でギンはイヅルに舌を這わせた。
さらさらとした肌に覚えず舌の根が疼く。
考えるよりも先に力を込めていた。
歯列が深く肉に食い込むとイヅルは身をよじらせ、ギンを非難した。

「いたいですよ」

「うん、食べたろかなと思うて」

「悪趣味です」

「知っとる」

口を離す。
イヅルの薄い肩はギンの唾液でぬるりと光り、その下には赤い歯型が色濃く浮かんでいた。
恐らく、暫くは消えないだろう。
ギンが指でなぞるとぬめりの中で僅かな凹凸が指先をくすぐった。
舌は、こびりついた生臭い肉の味を記憶している。
ギンは言う。

「ボク、ひとを食ったことあんねん」

「……ひとを」

イヅルは疑うだろうか。
ぐちゃぐちゃと肉を掻き回す感触は交わる事と似ていた。

「うん。美味いもんやなかったな。えらい硬いし、なんや酸っかい」

「そうですか」

存外、穏やかなイヅルの表情。

「驚かへんの」

「驚いてますよ」

「ひとを食ったって聞いた顔やないで、それ」

くすくすとイヅルは柔らかくすこやかな声を立てる。
ギンは理解できない。
戸惑うギンを見上げなから、なんてことないようにイヅルは言った。

「あなたの食い意地はそこまで張っていらっしゃったのだと驚いているのです」

ギンが問う。

「怖ないんか」

「だって好きですから」

赤く熟れた噛み跡を慈しむように撫でながら、イヅルはとろり、と赤い舌を覗かせ囁いた。

「僕を召し上がっても構いませんよ」

それがひどく蠱惑的にギンの耳に触れるものだから、本当に食べてしまおうかなどと思ってしまう。
どうぞ、と言わんばかりにイヅルは喉元を曝け出す。
血の気の薄い肌には、青々とした血管が冷ややかに浮いていた。
けれど噛みちぎれば赤い血潮が吹き出し、それはさぞ温かいことだろう。
瞼の裏でギンはイヅルの腹を食い破ることを思う。
イヅルの肌は柔らかいから、きっととても容易くギンを受け容れる。

「ボクに食われたいなん、イヅルも飛んだ悪趣味やな」

「恋はひとを盲目にしますから」

「食い殺されても良えと思うほどに?」

揶揄まじりのギンの言葉にイヅルは素直に首肯する。

「けれど、ひとの肉は美味しくないそうですから、きっと食べては下さらないのでしょうね」

少しさみしそうにイヅルが言うので、ギンは彼を抱えて、貪るような口付けをしてやった。
従順なイヅルが差し出す舌に歯を立てて、少し滲んだ血液を唾液ごと吸い上げた。

「イヅルの味や」

「不味いでしょう」

イヅルが苦笑した。

「ボクがひとを食うたのは飢えてたからや。せやからわざわざひとなんてもう食わん。イヅルも食わんよ」

「はい」

「せやけど、きっとお前の肉は美味いんやろなあ」

ギンはぬめる舌でイヅルに触れて、醜悪でない味を思う。

「同じ味しかしないでしょうに。隊長も盲目ですね」

イヅルは呆れながらも嬉しそうに言った。
ギンはうなづいた。

「そら、恋しとるからな」







しっとりと健やかな彼の身体が蕩ける様に甘ければ良い。
これ以上はないと言うほどに、優しくギンの餓えを満たせば良い。


 

(2012.0605)

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