静かに目を閉じて、頭に浮んだ言葉を興醒めして仕舞わない内に紙面に綴る。
脳内から紙面へとすべてを移し終えれば、続きを模索すべくまた目を瞑った。
下に敷いた二、三枚の紙は罫線に沿った文字で既に埋め尽くされていた。
視界の効かない世界は存外静かで、書庫の如く大量に本が積み重なる部屋では、開け放たれた窓から吹き込む風にぱらぱらとページが捲ら
れる音だけがやけ目立った。
更に耳を澄ませば、遠くの方で放課後の生徒らのざわめきが風に乗ってくる。
瞼の裏の世界に埋没しながら、適当な言葉を見つける。
幾つか脳裏に浮かぶものがあれば、それらを繋いで文章へと昇華させた。
音もなく瞳を覗かせる。
シャープペンシルが紙面を走る。
気付けば風は吹き止み、世界は静止していた。

ぱらり、

静閑とした空間で、何気ない筈のその音はひどく際立って聞こえる。
何気ない筈のその音が強く心臓を脈打たせた。
風は動いていない。
証拠に、窓際のカーテンは身じろぎひとつしていない。
けれどページが捲られた。
細長い見慣れた指が、飄々として文庫本のページを捲る様子が思索していた言葉の代わりに頭に浮かんだ。
机と対峙していた自分は見てもいなかった景色だが、現実としてその様子が背後にあるのを知っている。
扉の横の、丁度部屋の角にあたる位置。
多少錆び付いたパイプ椅子に長躯をもたれ掛からせて、座っている。
学校指定のブレザーをきっちりと着こなして、組んだ長い足のその上で読書に興じる。
真っ正面どころか真後ろに有るそれが見えるわけがない。
しかし、振り向かずとも判るのだ。
いつもと変わらずに、イヅルの後ろでギンはそうしている。

ぱらり、

また捲られたページで、イヅルははっと我に返り目の前の用紙の存在を思い出した。
眼前のアナログ時計を見上げ、示された時刻に少し急く。
仕切り直しと、シャープペンシルを握り直した。

「何を書いとるん?」

不意に背後から声をかけられ、イヅルは顔を上げて顧みた。
ギンが普段と変わらぬ笑みを湛えて、此方を見ていた。

「小説?」

「いえ、只の手紙です」

「へえ。今時、わざわざ手書きの御手紙も珍しいなあ」

「そうですね。手紙を書くのは久しぶりです」

「大事な御手紙?」

「……何故です?」

「一生懸命書いとるやろ」

「そう見えますか?」

「うん」

「……そうですか」

イヅルが相槌を打つと、それ以上は興味を持たなかったのか、ギンは読書へと戻った。
それに応じてイヅルも机と向き直る。
そして文章を書き連ねるべく再び思案に没頭した。
時折、舞い込む風が山と成った本をはためかせた。

…………。
…………………。

「あの、市丸先輩」

「なん?」

「これを」

ギンの前に立ったイヅルが差し出したのは、シンプルな装飾の封筒だった。
呼ばれてパイプ椅子に座ったギンが本から目を上げた。
封筒の表面には几帳面な字で『市丸先輩へ』と書いてある。

「さっきのボク宛だったんか」

「ええ」

「読んでええの?」

イヅルは頷いた。
差し出された封筒を受け取り、ギンは意外に厚みのあるそれをひっくり返す。

「……なんや、糊付けまでやってあんねんな。ボクに渡すんならせんでもええんに」

几帳面な事だと肩を竦めて笑うギンに、イヅルは曖昧に微笑んだ。
ギンが封を開けようと先端に手を掛け……ふとその手を下ろした。
代わりにギンはイヅルを見上げて、先程とは別種の笑みを浮かべる。
意地の悪い顔だ。

「な、イヅル。ボクな。今、めっちゃお腹空いとるんよ」

「……ええ」

唐突な切り出し。
イヅルは思う。
なんて愉快そうな顔。

「ほんまに腹減って腹減ってしゃあないん。死んでまうわ」

「ええ」

「だからな、これ、食べてええか」

「中身も読まずに?」

「せや」

ええやろ?と何もかもを見透かした風にして笑うギンを、イヅルは心底意地が悪いと思う。
同時に胸の奥底がもどかしい程に焦げ付くものだから、ひどく質が悪いと思った。
封筒が開かれ、中から紙が滑り出てくる。
ギンはそれらの一枚を手にとって、絶対に内容を把握しないように配慮しながら裂いた。
ぴりぴりと破かれた紙が段々と細切れになっていく。
所々に黒い線を含めた細切れがギンの掌に重ねられ、一枚が飄々とした仕草で摘まれた。
差し出された舌の上に紙片が落とされ、濡れた色に変色する。
紙片は咥内に納められ、ギンは堪能するように紙片を舌の上で転がした。
やがて咀嚼された紙片は、ごくりと音を立ててギンの胃の中に落とされた。

「甘いなあ」

手紙を嚥下し、ギンが言う。
余韻を味わうかのように舌なめずりをした。

「イヅルの御手紙。干し柿みたいに甘ぁて、飴さんみたいに舌の上で蕩けるんよ。嗚呼、美味し」

恍惚とした顔で、ギンは紙片を口に運び続けた。
そしてあっという間にイヅルの手紙は跡形もなくギンの腹の中に収まった。
イヅルはどんな顔をして良いか判らない。
一字も手紙を読まれなかった事に泣くべきなのか。
引き裂かれ食された事を怒るべきなのか。
甘美と美味と称された事を喜ぶべきなのか。

「ぜーんぶ食べてもうた。御免な」

何処にも悪びれる気のない不誠実な顔で、ギンは笑う。

「仕方ないやんなあ。食べてしもうんたんやもんなあ」

「…………何が」

仕方ないとでも言うのか。

「我慢できひんかった。せやからもうなあんも読めへん」

室内に影が落ちる。
いつの間にか日はあまりにも落ちていた。
ゆるりとギンが立ち上がった。
手紙を入れていた封筒と読みかけの本がギンの膝を擦って、床に落ちた。
今度はイヅルがギンを見上げる番になる。
しかしイヅルは目を上げない。
長い指先が蛇のように、イヅルの細い輪郭を捉え、くいと上向かせた。
思わず視線を交えた色素の薄い双眸が愉しそうに細められた。

「さっきの手紙の御用事なあに?」

舌先に残る甘さがそれを雄弁に語っている。

………
パロとネタ元→黒と白の山羊さんのアレ(童謡)
         文/学少/女

読まずに食うとか、どんだけ空腹だったのギンちゃん。  

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